コーヒー片手に、日々の何気ないことをつづった日記であります。


by the-sahara
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カテゴリ:読む・聴く・見る( 29 )

BOOK OF THE YEAR

少なくとも、自分の中では今年一番になるだろうな。

市川春子『宝石の国』(アフタヌーンKC)

戦う宝石の物語?
はてな、と思いながら読み始める。
独特の世界。そして、絵柄。
読む人を選ぶだろうか。
でも、面白いような気がする。

そのまま1か月ほどが過ぎて、久しぶりに読み返したのが運の尽きだった。
他のマンガをすべて手放してもいい。
そう思ってしまうくらい、何度も何度も読み返した。
一目惚れ?
いや、2度目だし。
でもこれは、まるで恋じゃないか。
こんなに読み返す本は、最近とんとお目にかからなかった。
吉田篤弘の『針がとぶ』以来だ。

人が絶え果てた世界で、不死の登場人物たちが、どのように変化していくのか、
見守りたいと思う。
それにしても、コミックス派の自分が、思わず雑誌を手にしてしまうくらいだから、
本当にどうしたんだろうと思う。
でも、楽しいから、いいや。

ああ、好きな本しかない本棚って最高だろうなあ!
まだまだたくさんの本に出会えますように。
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by the-sahara | 2013-09-21 14:28 | 読む・聴く・見る

ちょっと京の都まで

大きくため息をついて、本をとじる。
まだまだ、物語の余韻に浸りながら、でもほんの少し、さびしさを感じながら。

森谷明子さんの『白の祝宴 逸文紫式部日記』を読み終えた。
前作の、『千年の黙』の続きに当たる作品で、かの有名な紫式部が京の都で起こる謎を解決していく物語である。
王朝推理絵巻ということで、日本史で習ったような人物が何人も出てくる。そのため、何度も人名の読み方を見失いながら、何度も前後のページを行き来しながら、毎日少しずつ読み進んだのだった。

344ページ、二段組みという、ボリュームのある本だったので、当然ながら、なかなか残りのページ数は
減っていかない。
それでも、毎日、しおりが少しずつ前に進んでいくのが楽しくて仕方なかった。
中盤くらいまでは「まだこれだけ読める」という気持ちと、「全然先が分からない」というもどかしさ。
中盤を超えると、ページが少なくなっていくのをさびしく思いながらも、続きを読みたいという気持ちから、
ページを繰る手を止めることができなかった。

この、自分がどこまで読み進んできたかが目で見える、というのは紙の本ならではだと思う。
少なくとも、自分が電子書籍をメインにして読書をする日は来ないのだろうな、と改めて確認してしまった。
本そのものが好きなわけだから、それはもう当然のことか。

そんなことを思いながら、駆け抜けた物語。
実は、さらに続きの作品があることがわかったので、今は図書館で借りられる日を心待ちにしている。
文庫本になったら、間違いなく買うだろうなあ。
それにしても、分厚い本って本当に楽しい。
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by the-sahara | 2012-04-14 12:00 | 読む・聴く・見る

『空色勾玉』

もう、何度も読み返してきた本。
ハードカバー、ノベルスを経て、文庫本化するなんて、本当にずるい。
そう思いながらも、買ってしまった。
さすがに、文庫本になっても分厚くて、嬉しくなる。

どこでも持ち運べるし、気兼ねなく読める文庫本。
ハードカバーと比べると手に入れやすいことから、なくてはならない存在である。

でも、やっぱり「物語」はハードカバーがいいな、と時々思う。
あの本の大きさ、重さを感じながら、読み進めるのは格別。
文庫本と違って、あまり持ち歩かないから、なかなかページが進まない。
だから、続きを読みたい気持ちがずっと続くような気もする。
最後まで、夢中で読んでしまうことも多い。

ああ、どっちも捨てがたい!
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by the-sahara | 2010-06-05 22:20 | 読む・聴く・見る

本がほしいと言ってみる

誰かにプレゼントをするときは、本と身に着けるものは極力避けたい、とずっと前に書いたことがある。
中でも本は、自分の内面をさらけだすようで気恥ずかしいのと、もらった本を読まねばというような義務感を持ってほしくないといった理由から、避けている。そして、やはりどんな本が好きなのか分からないから難しい、というのが一番の理由かもしれない。
……からかどうか分からないが、私も本を贈られたことは数えるくらいしかない。

アルバイトを始めてからは、自分で本を買えるようになってきた。
それと反比例するように、例えば母に本を買ってもらうことは少なくなっていた。
アルバイトを卒業して、社会人となった今なら、当然自分のものは自分で買う。ねだって買ってもらう時代は、とうの昔に過ぎ去っている。
でも、「好きな本を1冊だけ買ってあげる」と言われて、どれにしよう、何にしようとわくわくしながら迷って、「また今度買えばいいやろ! 早くしなさい!」と怒られるまで迷って本を選ぶのが、どれほど楽しいことだったかを、今でも思い出すことがある。
妥協は許されない。次なんてない。
一回一回が、真剣勝負なのだ。どうでもいい本を選ぶなんて、失礼にも程があるではないか。
だから、そうして本を買ってもらえたときは、とても嬉しいものだった。

ところで、逆に自分で買う本は、案外適当に買ってしまったりする。
はずれもたくさん引いたし、売ってしまって手元にないものも多い。
そうかと思うと、耳から煙が出そうなくらい悩んで、ようやく買う本もある。
しかし、あまりにも悩みすぎて、欲しすぎて、全然買えない本もある。ハードカバーを手にするのは、確かに勇気がいるが、決して手が届かないわけではない。ちょっとした決断力と、懐の痛みに耐える気持ちがあれば、それはすぐにでも実現できる。
それなのに、私はずいぶん長い間、その本を買うことができなかった。
原因は、今でも正直分からない。ただ、とても好きだったから、としか言いようがない。
買えない。
でも、ほしい。それならば、もう誰かに買ってきてもらうしかない。

好きな人から、好きな本を贈ってもらいたい。
これが、そのままクリスマスプレゼントになった。
両手で差し出された本を、両手で受け取って、少しの間胸に抱えて歩いた。
嬉しかった。
やっぱり、いくつになっても嬉しいものだ。大事にしよう。本がボロボロになるまで。
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by the-sahara | 2007-12-29 10:30 | 読む・聴く・見る

まだ溺れるつもりなの?

本の海で溺れたい、という願望は、いつでも自分の中にある。
破産するときは、間違いなく本が原因になるだろうという自信もある。
そして、語学を始めたいと思うときも、たいていきっかけになるのが、好きな作家がいたりして、その作家の本を現地の言葉で読みたいという気持ちだったりする。
そのためなら、頑張ってみようかという気になるのである。

さて、私は学生のとき、国語が好きな科目のひとつだったが、いわゆる「古文」は苦手な方だった。
「なら、なり、なる……」と、まるで呪文のような活用形に、心の中で何度も悲鳴をあげたものだ。この活用形は何か、と問われても、そんなもん知るかい! と反発したいくらい、古文は不得意なのである。
活用形でさえお手上げなのに、さらに単語の意味となってはまったくといって分からず、模試などでは適当にマークして終わりにするという状態だった。
当時、古文は外国語と同じようなものだという考え方を持っていたら、少しは心の持ちようも変わっていたのだろうか。

しかし、二度と手に取るかと誓って大人になった今、どういうわけか、「ちょっとだけ古文を勉強してみたい」と思っている自分に気がついた。
原因は、久しぶりに万葉集の、恋の歌を現代語訳した本を読んでしまったからにほかならない。
和歌は好きだし、以前から読んでみたいと思っている古典はいくつかある。
もし、それさえも楽しめるようになったら、もっともっと、読める本が増えるのではないか??
我ながら、単純な動機にめまいがする……。
一生かかっても、この世にある本のすべてを読みきることなどできない。
そんなことは、百も承知のはずなのだ。
それなのに、まだ読みたい本を増やそうという。
どうしてだろう。その理由は、いまだに分からない。

秋がやってきた。
今年も食欲と読書の秋が始まる。
今手元にある本を読み返して、何がしてみたいのか、もう一度考えてみるのもいいなあ。
とりあえず、「古文の勉強」と、こっそり書いてみようっと。
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by the-sahara | 2007-09-30 22:16 | 読む・聴く・見る
この人の書く話は、いつもどこか不思議で、懐かしい匂いがする。
うっかり帰りの電車で読み始めてしまうと、手が止められなくて、はるか遠くに連れて行かれるような気分になるときがある。
よしもとばななさん同様、彼の綴る言葉は、私の胸の真ん中にストン、と落ちてくるのだ。

まだ読み始めたばかりなのだが(もったいなくて、先に進めない)、1話目の「針がとぶ」という話を読みながら、私は祖母を思った。
私は、祖母の形見としていくつかの品物を持っている。
まずは数珠。手製の数珠入れ。老眼鏡。ブラウス。財布。赤のすり減った、色鉛筆。鳩サブレーの箱に入った、たくさんのメモ。写真。
祖母が亡くなった日に、母と、伯母と従姉妹と一緒に、祖母が入っていた老人ホームへ荷物を整理しに行った。
主のいなくなったベッドを見ながら、どんどん棄てられていく荷物を見ながら、何ともいえない空虚な気分に襲われていた。どうして、そんなに簡単に棄てることができるのだろう。
あのとき、ぼんやりと考えたことの答えを、今日この本で見つけた。

主人公が、亡くなった伯母の荷物を整理することになるのだが、「残されたわずかなものたちを棄ててゆくことは、伯母を少しずつ失くしてゆくことに等しい」と、彼女は気づく。
だからこそ、私はこんなに不機嫌な声なのだ、と。
ああ、そうか、と思った。
やっと、あのとき言葉にできなかった気持ちを、理解することができた。
私は悲しかった。でも、同時に腹立たしくもあった。何に対してなのか、ずっと分からずにいた。棄てるしかないって分かってる。でも、このやるせなさは一体何なの?
今から思えば、どこまでも冷静に、祖母を失くしていく大人たちの姿に、それをどうにもできない自分に、腹を立てていたのだと思う。
冷静な大人とは対照的に、私は泣きながら袋に荷物を詰めていった。
すべてが無理なら、せめて少しでも、祖母のものを持っていたかったからだ。もう2度と、会えないというのなら、彼女が生きていたことをずっと覚えていたいと思ったからだ。

話を読み終えて、ぼんやりと形見の数珠を思った。
いつかこの世を去るときに、忘れずに持っていく数珠のことを。
よくもまあ、これだけこじんまりとできたものだ。
もし祖母が、普通にアパートなどに住んでいたならば、私は主人公のようにダンボール12個分の荷物を引き取っていたかもしれない。
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by the-sahara | 2007-01-29 22:11 | 読む・聴く・見る

『小惑星美術館』

寮美千子・作、小林敏也・画。パロル舎。

青く光る惑星、ガイアとその宇宙植民地である「れんがの月」の物語。
印象に残った言葉があるので、記録しておきたい。
れんがの月に住む子どもたちが、地球(過去のガイアか?)からやってきた主人公・ユーリに、なぜガイアでは、星の中ではなく上に立っていられるのかと聞くシーンでの会話。

「引力だよ。ガイアには大きな引力がある。だから、空気も水も地上にとどまる。厚い殻に閉じ込めなくても」
「ぼくたちが知っている重力は、遠心力だった。遠くへ遠くへと、遠ざける力だ。だからぼく、いつもさみしかったんだ。(でも)引力は違うね。ひとつになろうとする力だもの」
そんなこと考えてもみなかった。遠心力は孤独な力だ。だけど、引力は違う。ぼくたちは引きつけられ、いつもひとつになろうとしていた。

私も、そんなこと考えてもみなかった。
当たり前の力。それが外から見ると、こんな風に見えるのだろうかと思った。
素敵な力。
久しぶりに、この星を、大きなこの地球を見る旅に、出かけてみたいと強く思った。
この思いが、旅に憧れる私の原点だということを、長らく私は忘れていた。
それを思い出させてくれた、物語。
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by the-sahara | 2006-11-25 14:04 | 読む・聴く・見る
よしもとばなな、という作家を知ったのは確か高校のとき。それ以来、図書館で見つけては、ちょっとずつ作品を読み進めてきた。
この人の紡ぐ言葉は、いつも私の胸の中に、すとん、と落ちてくるような感じがする。
自分の言いたいこと、感じていることを、こうも見事に言葉にしてくれる作家を、私は他に知らない。そう、その通り。私が言いたいことは、まさにこの言葉なの、と読むたびにうなずかせてくれる。
そして、読んだあとには、灯りがついたみたいに、体がポカポカするのである。

すべての作品を読んだわけではないから何とも言えないが、彼女の作品には植物と、おばあちゃんと、何かしら不思議な力を持った人がでてくることが多いような気がする。
そのどれもが元気で、くっきりとした輪郭を持っていて、読むたびに「こんな人に会いたいな」「自然に触れてみたいな」と思わせる。何かと出会い、その何かと確かな関係を築いていく人がでてくるのも、彼女の作品の魅力である。

最近は、『王国』を読んでいる。
これは、……おばあちゃんが最高に素敵。強くて、やさしくて、たくましくて。
薬草茶でたくさんの人に力を与えるおばあちゃんと、主人公・雫石。2人が作り出す薬草茶のように、この本の言葉には、確かに力が宿っている。そんな気がする。
改めて、言葉には力や魂が宿っているのかもしれないと感じさせてくれる一冊である。その言葉は、温かくて、とても優しい。こんな力を操れたら、といつもいつも思ってしまう。
使い方ひとつで、毒にも薬にもなる「言葉」。
どう生きれば、どう接すれば、それは薬になるのだろう。まだまだ、習得には時間がかかりそうだ。

本棚に並べておきたい本のひとつに、『王国』は入れておかねば。続きを読むのが、もちろん先だけど。楽しみだなあ。
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by the-sahara | 2006-09-03 02:06 | 読む・聴く・見る

アーノルド・ローベル

下の記事の続きにあたる。

英語に慣れるぞと決意した私は、とりあえず本屋に行って、一冊だけ薄いペーパーバックの絵本を買ってくることにした。
どれどれ。棚から適当に一冊取り出す。悲しいことに、ペラペラめくるだけで、手が本を閉じようとする。そんなにも、英語が苦手になっていたのか……。このアレルギーのような反応、改善してやるぜ、と決意を新たにする。

前にでてきた「多読」のガイドを参考にして、何冊か本を取り出してみる。
これなら読めるかしらと思ったのが、Arnold Lobelの『Frog and Toad are friends』である。理由は、自分がカエル好きだからである。カエルとガマガエルが主人公のこの本なら、きっと最後まで楽しく読めるに違いないと確信した。
それに、昔どこかでこの本を読んだことがあるように思うのだ。小さい頃の記憶はもうあいまいで、よく覚えていないのだけど、小学校低学年の国語の教科書で見たような見なかったような。とにかく、アースカラーで描かれたユーモラスな絵に、見覚えがあるのは間違いなかった。

手元にある絵本は、今この一冊だけ。もっと読みたいが、サイフが寂しい上、大きな本屋に行くためにかかる電車賃ですら厳しい現状。勉強には、本当にお金がかかるなあ。
仕方がないので、図書館を利用することにした。
よく考えれば、この本棚に入っている本でさえ読めないのだから、ある程度読みきってから本を買いに行けばいいじゃないかと思うようになった。
そういうわけで、近頃は数時間図書館に行って、絵本や児童書(これは日本語)を読んだりしている。思えば、私が『赤毛のアン』を初めて読んだのは、高校生の頃だった。若草物語も、トムソーヤの冒険も読んだことがない。本が好きではなかった子供の頃に、読まなかった本がたくさんあるということだ。ああ、もったいない。だから、最近子供のフロアが宝の山に見える。

さて、例の『Frog and Toad are friends』、やはり日本語の絵本があった。このシリーズは4冊出版されているのだが、図書館には3冊しかなかった。
日本語のタイトルは、『ふたりは ともだち』、『ふたりは いつも』、『ふたりは きょうも』、『ふたりは いっしょ』である。1972年から1980年にかけて、出版された絵本である。版を重ねながら、今でも出版されている。
さっそく3冊を独占して読み始める。
これは、かえるくんとがまくんの物語である。たこをあげてみたり、そりですべったり、一緒にクリスマスを祝ったりと、2人の何気ない日常が描かれている。いつも一緒の2人はとても仲良しで、互いにとても大切な友達だと思い合っていることが伝わってくる。
読んでいる最中も、読み終わったときも、口元がほころんで、胸があたたかくなる絵本だった。自分も友達に会いたいと、強く思った。
本当に大切な友達が、自分のそばに1人でもいてくれたら、それはとても素敵で幸せなことなのだと教えてもらったような気がする。

読んだことのない児童書、絵本。読んだことのある、児童書、絵本。
図書館に行くたびに、少しずつ読んでいくつもりだ。
もう一度、思い出したいと思うから。昔、わくわくしながら絵本を読んでいた頃のことを。
今、英語のレベルでは、小さな子供と同じなのだ。この頃の気持ちを思い出さなくちゃ。
さあ、一歩ずつ、進もう。
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by the-sahara | 2006-08-12 08:38 | 読む・聴く・見る
英語で書かれた、ロンドンのガイドブックを持っている。
以前に、友人が買ってきてくれたもので、時々取り出しては、ロンドン市内の地図を眺めたりしている。本文は、開いてみるけれどまだ読めず、ペラペラめくる程度。

これまで、何度か洋書を読もうとしたことがあった。実際、ペンギン・リーダーシリーズから、易しい物語を読んだこともある。
でも、続かなかった。語彙数が足りないんだとか、文法の知識が足りないんだ、と思っていた。いつか、そのレベルがあがれば、読めるものだと思っていた。
だけど、大人になった今、ちょっとした英文を見るだけでも、その部分を読み飛ばしてしまう始末。学生の頃よりも、明らかに英語が苦手になっていた。もともと得意ではないので、それなりの努力を続けなければ、高校の頃の力を保つことなどできないのであった。

もう外国の本を読むことはできないのだろうか……。
そう思っていたときに、プレゼントされたガイドブック。「いつか一緒に」と言って手渡されたその本に、私はショックを受けた。
これまで、海外に行った友人に、「言葉の壁は越えられるものなのか!?」と不安をぶつけてきた。誰に聞いても、返ってくる答えは「大丈夫。なんとかなるよ」。
正直、いまだに信じられずにいるのが現状だ。多分、生むが易し、なのだとは思っているのだが。
でも、その本を受け取ったとき、友人の言葉を聞いたとき、心底行きたいと思った。苦手だと思うなら、学べばいいし、慣れればいいんだ。そう、まずはこのガイドブックを自分の力で読めるようになろう! そう強く思った。
これが、最近洋書を読み始めたきっかけである。

本のためなら、何でもできる。
英語の勉強もしかりで、とにかく英語に慣れようと決意した。
ということは、何から読めばいいのだと、最近よく見る「多読」の本にアドバイスを求める。その本を読むうちに、いきなり難しい英文を読もうとしていたから、面白くもないし、変に語彙数をあげる必要があると思いこんでいたことが判明した。読めるわけないんだよ。それでいいんだ。
有効なのは、小さな子供が読む絵本。ここから、始めることにした。
今の自分には、児童書でさえ遠い存在だ。ましてや、一般書なんて雲の上の存在。
でも、いつかまだ日本で翻訳されてない本を読めるようになりたい、と思う。日本語での出版が先か、自分が英語で読めるようになるのが先か。
それはまだ分からないけど、きっといつか行こう。海外の本屋に、大好きな作家の本を買うためだけに。
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by the-sahara | 2006-08-12 07:42 | 読む・聴く・見る